【大安禅寺】大安禅寺の歴史

前松平家永代菩提所・福井の名刹大安禅寺

今を遡ること1300有余年前、時の高僧泰澄大師が竜王山田谷寺を創建し、門前市をなすほどに越前庶民の信仰を得ましたが、天正2年織田信長の越前攻略の兵火に遭い、全山焼失し法灯850年の歴史に幕を閉じることになります。その霊地に、万治元年(1658年)第4代福井藩主松平光通公が、時の名僧大愚宗築禅師に深く帰依され両親、及び祖先の恩を忘れないために、福井藩主松平家の永代菩提所として建立されたのが大安禅寺です。山号は萬松山、宗派は臨済宗妙心寺派の禅寺です。

開山となった大愚禅師は、幕藩領主層を始めとする多くの人々の帰依を受け、江戸谷中南泉寺や播磨国法憧寺など多くの寺院の建立や開山となるとともに、妙心寺住職も勤めた美濃国(岐阜県)生まれの臨済宗の高僧です。

一方、開基である光通公は、10歳という若さで福井藩の当主となりますが、光通公自身が教養人だったこともあり、朱子学者の伊藤坦庵を京都より招聘し、儒学を中心とした文教を奨励して学問・文化方面でも藩を発展させた名君として知られています。その代表的なエピソードに、相次ぐ天災の為に復興に追いやられ藩の財政難に苦しみますが、その再建のために寛文元年(1661年)、日本初の藩札「福井寛文札」を発行し藩政を立て直しました。

その光通公が師を仰いだのが大愚禅師です。その出会いは、大愚禅師が持病の療養のため隣国加賀山中温泉を訪れた帰路、福井にも逗留していた際、禅師の評判を聞いていた光通公は、明暦3年(1657)福井城に招き、深い感銘を受けるとともに帰依し、福井城下に招くことを願い出たことが機縁となり、大安禅寺の建立がなされます。

境内より約300mほど登った山中には、福井歴代藩主の廟所、通称「千畳敷」があります。その墓石の高さは約3.7mあり、大名墓としては日本一と称され、「千畳敷」に敷き詰められている石は1360枚にのぼり、墓塔、敷石、廟所を囲む柵、門扉にいたるまで、福井産の名石・笏谷石が用いられた見応えのある廟所です。正面奥に初代藩主である結城秀康公、両側に歴代藩主や室の墓塔が整然と配置され、廟所門扉(引戸)の表側には松平家の葵の紋が、内側には豊臣家の五七桐の紋が彫られています。また廟所より少し下ったところには、生前大安禅寺をこよなく愛した幕末の歌人・橘曙覧の奥墓や、彼と親交の深かった種痘医・笠原白翁の墓もあります。

また伽藍も創建以来、約360年、空襲や震災また大雪の被害などを乗り越え、創建当初の面影を現在に伝える貴重な福井の文化遺産です。平成20年には、その価値が認められ、本堂はじめ伽藍一帯が国重要文化財に指定されました。その価値とは、大安禅寺が、越前藩主松平家の菩提所として江戸初期から中期にかけて造営された伽藍に良好に保存されていること、各建物の意匠が優秀で福井藩大工の高い力量を示すことが挙げられます。建造物としては、福井市内で唯一の国指定重要文化財です。尚、坐禅堂(枯木堂)は明治初期に老朽化のため取り壊され、平成8年に復興されたものです。

 現在では、観光寺院としても門戸を広げ、法話や禅体験(坐禅・写経)精進料理などを通して、禅をもっと身近に感じてもらう取り組みをしています。また花菖蒲のお寺としても知られ、6月には60種類・約1万株の花菖蒲に約1千株の紫陽花、そして100種類以上のバラが咲き誇り、この時期には全国から大勢の拝観者で賑わいをみせます。このように大安禅寺は、福井だけでなく多くの人が集う「心の道場」として今なお親しまれています。

大安禅寺

万治元年(1658)に第4代福井藩主・松平光通が、当時の高僧・大愚禅師に帰依して建てた臨済宗妙心寺派の寺で、歴代福井藩主の菩提寺として知られ、現在も、当時そのままの姿をとどめています。
数百点にもおよぶ文化財が保存され、本堂裏には門に葵の紋を配し、笏谷石1,360枚の石畳みと高さ3mを超す墓石がズラリと並ぶ”千畳敷”と呼ばれる、歴代福井藩主が眠る松平家の墓所があります。また、境内西側には花しょうぶ園があり、初夏には美しく咲き誇ります。

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